■ 自分の視線の先にあったもの
今回は「なわとびのこと」。
暑い中、日が陰ってから公園で跳んでます。
猛暑猛暑と言われつつ、夕方の公園には人がいますね。遊具ではしゃぐ子、サッカーやバスケでボールを奪いあう中学生、犬と散歩しながら通りすぎる人、暗くなりかけると花火の光も。
僕も、黙々と縄を走らせ、跳んでは靴底を地面に落とし、ときに砂ぼこりといっしょに舞っています。すぐに汗がにじんで、こめかみのあたりをぬぐってばかりですが、それでも気持ちがいい。
暑くても跳んでるのは、この気持ちよさがあるからなんだろうと思います。
―― 何を目標に跳んでるのか?
数年前までは、人に見せるためでした。今の時期なら学校の夏祭りで跳ぶのがすぐそこまで来ていたころ。人前で披露しなくなってからは、練習という名の運動です。そのときどきで、どうすれば跳べるか考えては試すのを繰り返して、何百時間も公園の広場で過ごしてきました。
いろんな技が目標といえば目標だったのでしょうけど、「目的」と言いかえると、体を動かすのが楽しくて、そのために続けてきたんだろうな、と最近は思ってます。
今まで見てきたいろんななわとびの人と比べると、僕がなわとびを通じて「一番見ているもの」って、自分の体なんです。
観客や教え子のような人でもなく、なわとびの世界でもなく、ショーの主役や跳べた自分のような客観的に見た自分でもなく、跳んで回す中で動いている自分の体。ブログでも、ずいぶん細かいところまで体の動きを書くブログだな、と思った人もいるかもしれません。それくらい、なわとびしながら体を感じています。
昔は別のものを見ていました。
それこそ上で書いた、人、業界、自分。どれも視界には相手がいます。自分の姿だって、人から見たらどうかと考えれば相手がいる。視線を意識しつづけていた、と言ってもいいでしょう。
でも、同時に体の動きを意識していたのも確かです。練習しているときはもちろん、グリップを握っていないときでも、ふと動きが浮かんだときに感じる、体の中で筋肉がぴくりとスタンバイするような感覚。
跳べないからこそ動きへのこだわりが消えなくて、やがて、どうやったらクセを克服できるのかを求めるようになりました。長いあいだ、動きを考えることで手いっぱいでしたが、体を動かせていることの楽しさもあったのだと思います。縄があると、特殊な動きもいろいろできたからでしょう。
―― せっかく持っている体という道具を動かして体験したい。
ミニカーや人形を手にした子どもが、ここにはない物語をつぶやきながら手もとを動かすのに似た気持ちですね。
なわとびは自分事(じぶんごと)でした。
ちょっとなわとびの世界に踏みだしたのはだいぶ過去の話です。今でも学校で子どもが跳ぶのを見たり教えたりする機会はありますが、大半は自分の時間。どこかで自由を手にできる運動として、その楽しさを見つめながら跳んでました。
そんな自由や楽しさにたどりつくには、自分の体を動かせないといけません。だから一番見つめていたのは、自分の体でした。
暑さの残る夕暮れの公園で、いつも可能性を求めるように、体を見つめています。