■ もしも願いがかなうなら
今回は「願いのこと」。
2023年最後の更新です。
年賀状のようにテーマにしている干支(えと)、来年は辰(たつ)、龍です。「りゅう」って竜と龍の2種類がありますけど、『ドラゴンボール』世代なので神龍(シェンロン)のほうで。
実は、『ドラゴンクエスト3』も3機種に渡ってプレイしたので、神竜(しんりゅう)でもいいんです。共通するのは「願い」です。
「さあ願いをいえ、どんな願いもひとつだけかなえてやろう…」
もしなわとびで何かを願うなら ―― と考えると、何も浮かびません。もっと跳べるようになりたいとは思っていても、それは、かなえてもらうものとは違うと思うのです。
自分の跳べる姿は、練習を続けて自分で手に入れるものだからです。
昔、なわとび好きの人たちといっしょに練習していました。教えてもらえるいい機会にもなってました。実力差だと、3重とびと5重とびくらい違いがある人たちで、いつも参考にしてばかりでした。
でも、うまく跳べなかったんですよね。友だちが文字どおりあの手この手で見せてくれた技にも、「こんな感じだと思ってます」と惜(お)しげもなく伝えてくれた感覚にも、僕はなわとびで応(こた)えられませんでした。そんな僕の姿に、気づかうような優しいまなざしでいてくれた友だちの顔が忘れられません。
タイミングとか、体のクセとか、挑戦以前の問題が僕にはあって、教えてくれる人の願いに応えられないギャップがあのころありました。教えてもらう権利はあっても、資格がないような……。
そんな過去も5年近く前になりました。
自分に欠けていたものをつかめてきました。手から縄の先まで回すこと、体を伸ばして跳ぶこと、そのタイミング …… だいぶよくなったと思ってます。
ただ、体の感覚は欠けっぱなしです。バランスを確認して、自信をもって挑んだ連続3重あやなのに最初から縄がそれるとか、珍しくありません。欠けているのがわかるからこそ、どうにもならない現実に直面しています。
好きで10年跳んできました。アドバイスに応えられないころは、「技術の問題」だと思ってました。実は、「体がそこまで向いてなかったのだ」と実感したのは、ようやく技術が追いついてきたこの2~3年のことです。着地もしてないのに、ひざから下が崩れるようでした。
「…何も言葉が出てこないよ
自分の母親から望んでなかったなんて言われて
逆に何て言えばいいんだ」
今年、本誌のほうでこの作品を何度か読みました。妊娠した同級生と話すようになった男子高校生が、母親になろうとしている同級生と、自分の母親との距離にさまよう話でもあります。何度目かに読んでいたとき、文脈が違うのは承知で、跳べないときの自分が重なりました。自分の体にとって、なわとびは望まれない存在だったのかと。
そう思うと、佐野が泣き崩れるシーンや、青木が心を固めるシーンが、そのたびに心に迫ってくる。2人が向きあったのが「母」なら、それを読んでいる自分は、自分の中の何を見つめないといけないのか。
今でも前回しや交差がそれて引っかかることがあります。
もし龍に願うなら、技術よりも体でしょう。体がなんとかなりますように ―― 言葉は角砂糖のように崩れて消えます。願えません。受けいれて、自分でなんとかするしかない。龍への願いで跳べるようになっても、その姿はつくりものでしかない。跳べたら、それで終わりになる未来が見えます。
教えてもらうことも似ているのかもしれません。でも、教えてもらえた時間のありがたさや、跳べた自分が次に何をしたいかがあるから、跳べた姿はただのつくりものではないのです。
こんな体でどこまで跳べるのかわかりませんが、その時々の小さな願いを見つけながら、自分でかなえていきたいと思います。
というわけで、最後はえとマンガ。龍の願いは――。
ドラゴンスイング(左右リリース)も、手首を自分に向けすぎるクセを克服して、なんとかなった技ですね。自分の体に付きあいながら続けます。
今年も読んでくださりありがとうございました。よいお年を。