■ 出会えた運から歩きだす道のり
今回は「運のこと」。
スリーセブンということで運の話です。
―― OOに出会えたことを感謝したい。
その道で何かを成した人の談話でよく聞くフレーズです。運や偶然に感謝しているように聞こえて、昔からどこかしっくりこない言葉でした。
大切なのは運ではなく、その人の意志や足跡だからでしょう。出会えてからその人がどれだけ努力をしたのかとか、続けてこられた魅力は何かとか。
それを前面に出さずに感謝を口にするのが謙虚さでもあるのでしょう。ただ、インタビューのような場面だと、どこか言わされてる感というか、暗黙のヒーロー像を求められているような雰囲気から出てくるフレーズに聞こえて、もっと素直に語らせてあげていいんじゃないかな、と思うことがあります。
もちろん、僕もなわとびとの出会いには感謝しています。
今でも「単縄」はより専門的ななわとびとして通じるのかな? 単縄を見せてくれた先生に出会えたこと、動画で見たことのある人が実は同じ地域の人だったこと、児童館のクラブや定期練習会でご一緒できたこと …… どれも、運と無関係ではありません。
一方で、運は一部でもあります。
出会ってから続けてきたのは自分の意志です。僕はなわとびで何か大きなことをめざしたわけではありませんし、運動する機会があったほうがいいかなと思って続けてるのも大きな理由です。なので、意志と言ってもそんなに強いものではありません。
ブログも、書いて世間に出せるツールがあること ―― というか、ネットを始めとした科学技術が発展している時代なのがラッキーなんでしょうけど、そこまでくると運というには大げさ。むしろ、ツールをどう使うかを試されている時代です。
ブログを始めたころは、出会えた感謝の意味もありました。発信してる人が少ないころならいくらか価値があったのでしょうか。もう遠い昔ですね。今でも感謝を持ちつづけて活動している人もいれば、運を感じている時期だけ役目のような行動力を持っている人もいる。運が降ってきた小さな星のようなものなら、その星は形を変えつづけるのでしょう。
跳んでいるとき、あまり運は働きません。
縄も体も、その人の持っている実力がほぼ映って動きます。珍しくEBが思わぬ勢いで回ったとか、ズレたと思ったリリースがきれいに手に飛びこんできたとか、運のようで運ではありません。ねらってできない一瞬は、実力ではないからです。
ただ、どうしたら同じことができるかと考えるきっかけにはなる。もしそれで理想の技術に気づけたら、そのとき初めて、偶然がラッキーだったと言えるのでしょう。
花蓮と同じ十七歳だった時、私はつらい想いを経験し、そこから逃れるためにミステリを書き始めた。自分だけの箱庭をできるだけ美しく飾り、せっかく創ったそれを大勢の人に差し出したいと希って書き続け、今の職業にたどり着いた。あの日から見れば、現在は来世のようなものだ。
昔読んだこのミステリの一文が浮かびました。
前世や来世は推理小説の(特に核心の)テーマにしづらいものですが、それでも人の意志や道のりが実体なきものでも作りだす。偶然を足がかりにして、挑んだ足跡を、そっと語るような心模様なのでしょう。
なわとびに出会えた運が、今は形を変えて、跳んで当たり前の日常になっています。その切れ端や欠片(かけら)が文章やイラストにもなっている。子どものころ、たったひとつ、得意な側のスポーツだったなわとびに再会して続けてきたのは、たしかに来世のような気持ちです。
教科書のイラストを見て描いてみたかった絵です。今回のテーマと重ねられたかな。大当たりは出せませんけど、引き続き跳んでいきたいと思います。