とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

864 風化

■ 風化か変化か

今回は「風化のこと」。

この時期、戦争の話でときおり耳にしますね。

戦後80年にもなって、当時を生きて知る人たちが少なくなっているのも大きいのでしょう。当然これまでも耳にしてきたことですが、80年という数字や、8月という時期に思いだす現実です。

最近では意見を言うにも遠慮がなくなっているのか、過去の重い歴史を今の世代に背負わせないでほしいとはっきり言う年代もあるようで、風化どころか吹き消しにすら見えます。

僕は、戦争(軍備)も原発も、「何かあったら苦しいから」という単純な理由がまず一本芯にあって、賛成はできない立場です。それで苦労や不便があっても、飲みこむスタンス。これから世の中がどう動くかはわかりません。そんな中で言えるのは、こういう考えがあることは吹き消してほしくはないし、ただ認識するのではなく、視界に入ること前提でどう答えるかまでを想定してほしい。

なので、「今の世代に」と言う人も意見としては耳に入れつつ、争いが現在進行形で世界で起こっている以上、難しいでしょうと言うしかないかと思っています。人を巻きこむ過ちが繰り返されているなら、武器を手に争った過去は何度でも引き戻されるし、当事者であることからも逃れられません。


重い始まりになりました。風化の話です。

なわとびでも感じることがあります。これは風化と言うほどでもないんですけど、冬以外は忘れ去られるスポーツだと毎年思います。

小学校で働いていると特にそう。体育の年間計画だと、ほぼ冬にやる運動になっているので、それ以外の季節では跳んでる姿を見ないんですよね。別に冬でなくても跳んでいいはずなのに。

休み時間に跳んだっていいのです。でも、ドッジボール、サッカー、鬼ごっこ、だいたいこの3つが「運動場3強」で、なわとびは見る影もありません。道具が手もとにないとできないのもあるのでしょう。なわとび台が片づけられずに置かれている学校なら、跳ぶ姿もあるのかな? 機会があるなら、季節限定で風化するようなスポーツではないと言えます。


機会と言えば、コロナのころは着目されてました。

密にならない運動って、広がりやすいのか広がりづらいのかあやふやなイメージもありましたが、一部のスポーツ関係の人はこぞってなわとびをプッシュしてました。たとえば YouTube 始めなわとび動画の一部は、公開時期を調べればそのころに集中している傾向が見られるはずです。

ただ、コロナが終息するのに合わせて、そうした流行も風化しました。あのころ広がったなわとびの輪は、すこしでもなわとび人口を増やすことにつながったんでしょうか。

どちらかというとなわとび業界の視点になりますね。単縄の世界は今も風化してはいませんが、他のスポーツ同様、多くの人の興味を引きつづけるのは難しいのでしょう。僕ももう長いこと、なわとびの世界の様子を追っていません。技術的にもなかなか届かないし、組織的な動きまではあまり興味がないしで、すっかり疎遠になってしまいました。


風化と変化の違いなのでしょう。

戦争体験のように、時とともにどうしても失われてしまう側面があるのが風化。なわとびは、着目度が上がったり下がったり変化しただけで、失われたわけではありません。

最近の新聞に、戦時中の女工は全部が全部悲劇的なものではなかったと語っているかたがいました。

教育や娯楽を与えてもらえて、戦争のさなかでも喜びを感じられる時間もあったのだと。実際にあった悲劇は悲劇として記憶と記録に残るものではあるけれど、そうでない記憶もまた忘れてほしくない ―― そんな祖母の思いを語り継ぐお孫さんの記事でした。少なくとも、新聞記事という記録として風化されることはなくなったのでしょう。

風化も、手立てしだいでは「変化」として違う道が開けるんじゃないか。そんなことを思います。

イラスト:草むらに刺さったグリップと、宙に躍る縄。背景に入道雲。

墓標ではなくこれから

跳べなくなってきた僕のなわとびも、いかに風化させないかですね。まだ跳んでいたいと思っているかぎり……。