とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

710 いちばん初めにあった空

■ 意志と本能、優しさと楽しさ。

今回は「着地のこと」。

ああ、そうなんだ、と思いました。

坂崎乙郎のエッセイでバレエの跳躍は高く跳ぶためではなく、より深く落ちるためだと読んだ。そのあとにつづく話を思い出せないまま、そのフレーズだけが胸に残りつづけている。跳躍が意志だとすると、落下は本能になるのか。もしそうなら、演者は意志と本能をたった1つの跳躍で使い分けて表現しているのかな。


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僕はバレエにはまるで見識がないんですが、着地で美しさを見せる感覚はよくわかります。フィギュアスケートがわかりやすいでしょうか。靴底にブレードがあるので、着地(着氷)でブレードがスムーズに乗らないと、そこまでの回転が台無しになってしまうのと同じです。

なわとびも、ドスン、と地面を揺らすような着地をしたら見苦しいし、ケガにだってつながります。最近の競技ルールだと、「ぎりぎり」「まあまあ」「きれい」の3段階で技の完成度が評価されているようで、これも、着地したときの姿で大きく印象が左右されそうです。

降り立つ余裕は、美しさであり――。


飛び立つ楽しさでもあるのだと思います。

上のブログで紹介されている曲、 MOROHA の「エリザベス」。動画で聴いていたら、PVで、子どもが「飛んで」いるシーンがありました。両手を家族に握ってもらいながら、体を宙に浮かせている1枚でした。

小さなその体では、まだたどりつけない高さ。
大人でも作りだせないかもしれない滞空時間。

それは子どもにとって、初めて自分で宙に浮かんだ瞬間だと思うのです。

持ちあげて支えてもらいながら、足で体重移動をして、やがて降り立つまでの時間。両脇で持ちあげている人も、子どもの動きに合わせて、今度は降ろすように腕を下げる。そうして無事に地面に戻ってくることができるから、子どもは安心してまた宙に跳べるし、飛び立てることが楽しくなってくるのでしょう。

「高い高い」や肩車の浮遊感と違うのは、人の手を借りつつも、自分の足で踏みきって、空中で体を支えているからかな、と思います。


一方で、高いジャンプは恐怖でもあります。

なわとびもそうですが、高く跳べれば有利なスポーツは多いです。でも、ジャンプには着地がついてきます。空中で時間の許すかぎり動きを追いつづけるようなスポーツだと、ぎりぎりまで着地を先延ばししがちで、その多くは危険と隣りあわせ。


この話で、あえて「罪」という言葉を高いジャンプに重ねました。着地を見放した、あるいは着地に見捨てられた瞬間の体は、ガラスのように儚(はかな)い亀裂を心に描かせます。亀裂は、ときに本物のケガとなって、体を砕きます。

実は、両手を持ちあげてもらうジャンプにも、幼い子だと脱臼(だっきゅう)の危険があるそうです。今回は、安心して着地できることが主題ですが、今まで気づかなかった部分でした……。

ジャンプやリズム感の練習のための「手つなぎとび」にも似た部分があって、手を握っているから、子どもは安心してタイミングを合わせられます。まるで、「ハイチーズ」と声をかけてくれる写真家に、安心して笑顔を預けられるように。

ひとりだと崩れてしまうかもしれないジャンプが、着地を守ってくれるつないだ手を通して、形あるものになっていく。自由に飛ばせてもらえた記憶を心のどこかに秘めて、人は跳びあがるのかもしれません。

イラスト:草原の上で両手をつかんで持ちあげてもらっている男の子の姿が二線の枠に囲まれている。枠の外には、同じ草原でなわとびする、大きくなった男の子。

あの楽しさはいつまでも

 

2023.7.6 追記:uninstさんから心温まるコメントをいただきました。ありがとうございます。