■ 意志と本能、優しさと楽しさ。
今回は「着地のこと」。
ああ、そうなんだ、と思いました。
坂崎乙郎のエッセイでバレエの跳躍は高く跳ぶためではなく、より深く落ちるためだと読んだ。そのあとにつづく話を思い出せないまま、そのフレーズだけが胸に残りつづけている。跳躍が意志だとすると、落下は本能になるのか。もしそうなら、演者は意志と本能をたった1つの跳躍で使い分けて表現しているのかな。
僕はバレエにはまるで見識がないんですが、着地で美しさを見せる感覚はよくわかります。フィギュアスケートがわかりやすいでしょうか。靴底にブレードがあるので、着地(着氷)でブレードがスムーズに乗らないと、そこまでの回転が台無しになってしまうのと同じです。
なわとびも、ドスン、と地面を揺らすような着地をしたら見苦しいし、ケガにだってつながります。最近の競技ルールだと、「ぎりぎり」「まあまあ」「きれい」の3段階で技の完成度が評価されているようで、これも、着地したときの姿で大きく印象が左右されそうです。
降り立つ余裕は、美しさであり――。
飛び立つ楽しさでもあるのだと思います。
上のブログで紹介されている曲、 MOROHA の「エリザベス」。動画で聴いていたら、PVで、子どもが「飛んで」いるシーンがありました。両手を家族に握ってもらいながら、体を宙に浮かせている1枚でした。
小さなその体では、まだたどりつけない高さ。
大人でも作りだせないかもしれない滞空時間。
それは子どもにとって、初めて自分で宙に浮かんだ瞬間だと思うのです。
持ちあげて支えてもらいながら、足で体重移動をして、やがて降り立つまでの時間。両脇で持ちあげている人も、子どもの動きに合わせて、今度は降ろすように腕を下げる。そうして無事に地面に戻ってくることができるから、子どもは安心してまた宙に跳べるし、飛び立てることが楽しくなってくるのでしょう。
「高い高い」や肩車の浮遊感と違うのは、人の手を借りつつも、自分の足で踏みきって、空中で体を支えているからかな、と思います。
一方で、高いジャンプは恐怖でもあります。
なわとびもそうですが、高く跳べれば有利なスポーツは多いです。でも、ジャンプには着地がついてきます。空中で時間の許すかぎり動きを追いつづけるようなスポーツだと、ぎりぎりまで着地を先延ばししがちで、その多くは危険と隣りあわせ。
この話で、あえて「罪」という言葉を高いジャンプに重ねました。着地を見放した、あるいは着地に見捨てられた瞬間の体は、ガラスのように儚(はかな)い亀裂を心に描かせます。亀裂は、ときに本物のケガとなって、体を砕きます。
実は、両手を持ちあげてもらうジャンプにも、幼い子だと脱臼(だっきゅう)の危険があるそうです。今回は、安心して着地できることが主題ですが、今まで気づかなかった部分でした……。
ジャンプやリズム感の練習のための「手つなぎとび」にも似た部分があって、手を握っているから、子どもは安心してタイミングを合わせられます。まるで、「ハイチーズ」と声をかけてくれる写真家に、安心して笑顔を預けられるように。
ひとりだと崩れてしまうかもしれないジャンプが、着地を守ってくれるつないだ手を通して、形あるものになっていく。自由に飛ばせてもらえた記憶を心のどこかに秘めて、人は跳びあがるのかもしれません。
2023.7.6 追記:uninstさんから心温まるコメントをいただきました。ありがとうございます。