■ 選ばれることを選べる人
今回は「選択のこと」。
なわとび活動にあまり興味がありません。
ここで言う活動とは、競技、イベント、練習会、宣伝などです。なわとびを始めたころは、イベントに足を運んだり、何年か児童館で子どもに教える機会もありましたが、今は何もしてません。学校で教えたり見せたりするくらいです。(それも、冬場以外はないに等しい)
この前何かで「選択」をテーマにした話を読んで、選ばれる側になろうとしてないからかな、と思いました。
さまざまな活動は、どこかで選ばれる瞬間があります。
宣伝やアピールがあるからでしょう。知ってもらいたい、姿を見てほしい、もっと活躍の場がほしい …… 目的はどうあれ、活動そのものが外に向けたアピールになっています。外に飛びだしたものに誰かがふれれば、反応が生まれます。評価と言ってもいいでしょう。好印象か、無視か、反発か。そんな反応が見えたときが、選ばれる瞬間です。
僕は、そういう瞬間をあまり求めていません。公園や学校で、人に見られるときに意識はしますが、もともとは自分が跳びたくて跳んでいるところに向けられた視線です。見てもらうことが目的ではありません。
楽しいと思ったから、趣味としてなわとびを選んだ。
気持ちとしては、いったんそこで完結しているのでしょう。アピールしなくても ―― 選ばれなくても、なわとびはできるからです。
ただ、選ばれなければ発展はありません。
ちょっと社会の話を持ってきます。ここ数年(あるいはもっと長く?)、「中間層が軽視されている」という不満をよく見かけます。ほとんどが国・政府に対するものです。
望まれている政策をどこかできれいにかわしつづける様子を見ると、うなずける部分は当然あります。ただ、いつも違和感があるんですよね。投票率が低いなら、軽視されても仕方ないんじゃないかと。
意思を示さない相手を誰が尊重するのでしょう? 最近の国政選挙の平均値で、30代~ 50代だと約 50%。半分は訴えてない様子。収入というより年齢の中間層で見てますけど、本来は無視できない数の集団のはず。投票もせず、恨みだけ飛ばしても、脅威になんてみなされないですよね。投票で代表者を選んでいるように見えて、逆に国から選ばれていない光景が見えるのです。
声をあげる相手は、実は身近な集団でもあるんじゃないか? ただ、その集団を、それこそ 50%から 90%に変えようとするなら、その行動もまた評価され、選ばれる対象になります。投票で人を選ぶだけなら一歩踏みだすだけでいい。でも、それ以上はさらに踏みこまないといけません。筋力も胆力も必要な世界が待っています。
選ばれる側になるって重いことです。
世界大会をめざしている子と練習してたころも、ときおり感じました。意思を通そうとするなら、「選ばれる」プレッシャーを受け止めなければいけません。その重みをやる気に変えられる人が、より外側に出られるのでしょう。前に進める、ということです。(外に出ないのがダメだと言うつもりはありません)
人と練習しなくなったころ、せめてネット上で、なわとび関係の様子くらいは見つづけるつもりでした。でも、すぐにそれも自分の選択肢からはずれました。なわとび情報って、結局、なわとび友だちと話せるように追いかけていたのが大きかったと気づいたからです。今回の話で言いかえるなら、縄好きとして選ばれるための情報収集 ―― そんな側面があった気がします。
自分はなわとびを選んだ。でも、そこまでです。
選ぶ・選ばれるのあいだにある一線って、ちょっと足を伸ばせば越えられるようで、単純なものではありませんね。縄を跳びこす難しさにも重なるものがあります。
ブログは、ときにこういう話を選べるのがいいところです。
公開している以上、文章として選ばれる部分はありますが、それくらいは、選ばれることを選んでいると思いたい。そんな話のイラストは、選ぶつながりで軽めに……。