とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

666 奏縄回し

■ 削ぎ落とした音を信じて

今回は「音のこと」。

ゾロ目回です。

555 からまた111回たちました。5日更新のこのブログでは、およそ1年半です。今度は何を書こうかと、1年半の持ち時間をもらったつもりでぼんやり考えていましたが、飛びこんできたのは、ある短編マンガのワンシーンでした。


 

春琉渡璃(はるわたり)さん作、機械設備の旋盤(せんばん)に向きあう工業高校生の話。

その中で、旋盤の「音」だけが描かれるシーンがあって、旋盤の回転音を幾重にも連なる奇跡として描いていて、単縄のリリースの軌跡と重なって見えたのです。

リリースはそんなに音の出る技ではありません。似ているのは軌跡くらい。でも、「奏盤廻し」では、最初は不安定な回転が、徐々に安定して整ってくる様子を、ギザギザな音の軌跡が滑らかになっていく描きかたをしていました。

旋盤の扱いや精度が「音で見える」 ―― このへん、なわとびも同じで、技術ってどの分野でもつながってるんだなと思いつつ、旋盤のような違う分野でも、その音の軌跡がきれいに変化していくシーンをあこがれに近い思いで読み進めました。

音というと、ブログでは、縄の音の激しさのような過剰な一面をテーマにすることが何度がありました。近所にも金属加工の町工場があって、ときどき近くを通るのでわかるんですが、やっぱり、ただ音として感じるには音量・ボリュームが先立ってしまうことが多いです。

でも、その中にこそ、洗練された響きがあるはずで、関わってる人でないとその音は拾いあげられることがないのかもしれませんが、ときに宝探しのように魅惑的に、耳に飛びこんでくる星くずだと思います。


この話のときにツイートしたのが、近い気持ちです。


「奏盤廻し」、さらにそこにドラマがあります。

主人公たちはどうして旋盤に本気なのか? 登場する高校生2人、土井と若山は、それぞれ工業高校に入るまでに抱えてしまった過去があります。旋盤は、2人のまとまりきらない思いを削ぎ落とすモチーフでもある。

旋盤、音、過去 ―― これらがつながりあって1つの光景になっていくクライマックスが、無垢な芯材のように美しい。すこし粗雑さを残したような武骨な絵柄から、そこに包まれていた心が見えるようでした。

改めて読んでみて、実は、土井が過去にぶつけられた言葉を削ぎ落としていくシーンで、不覚にも涙が出てきました。

毎月買ってる本誌(『月刊アフタヌーン』)で、当時これを読んだときは、そんなことはありませんでした。僕の場合、公園でひとりでなわとびしていて、自分は「浮いて」いるのかなと思うときがそれに近いんですが、楽しんで跳んでいられるあいだは、空想の視線に気持ちが負けることなんてなかったのです。

でも、今はすこし違う。

ブログの 555 から1年半。以前より体が動かなくなってきて、気持ちを支えられる跳びかたに黄信号が灯りはじめました。プリキュア話を書いたあたりから、なわとびの語りかたに別の楽しさができたものの、それは体を動かさなくても手を伸ばせる材料にシフトしただけとも言えます。

いつしか肉体的に自分は変わってしまっていた。涙が出たのを「不覚」と思ったのは、僕の中に衰えることの覚悟が足りなかったからでしょう。

自分の音を思い出して まっすぐ歩いていけ

余計な部分を削ぎ落として形を成していく


「奏盤廻し」より。僕は頂点(てっぺん)を取りたいと思うタイプではありません。でも、土井が空想の切り屑(キリコ)の中で、やっと自分を縛っていたものから抜けだしたとき、僕もそんな瞬間に立ちたい、と思いました。

イラスト:旋盤に集中する土井と若山。そのあいだに、666を描く音の軌跡。手を取りあって、グリップを耳に当ててその音を聴く女の子と男の子。

想像力から始まるイマジネーション

上のツイートでイラストにもした、同じ雑誌で連載している『ワンダンス』(珈琲)で、ダンスに本気な湾田さんが耳の不自由な父親の話をしたとき、こんなことを言ってました。

「耳が聴こえなくても 音がなくても ダンスなら音を聴かせられるんじゃないかと思ってるんです」


なわとびでも、できるかなあ……。