■ 対称性と日本的(?)演技
今回は「対称のこと」。
本を読んでいて、思わずなわとびを連想した話。
「…… 東西南北という文字だって、左右対称を全部、微妙に崩している……。最初からまったく非対称というのでは駄目なんだ。対称にできるのに、わざとちょっと崩す。完璧になれるのに、一部だけ欠けている。その微小な破壊行為が、より完璧な美を構成するんだよ」
日本の様式美は、完全な対称からわずかに崩しているところがある、のような会話があって、ある技が浮かんでしまいました。
S・C・トードです。
そもそもC(クロス、交差)自体、どちらかの手が上になっているので完全な対称とは言えないのですが、「SCCかと思ったらトードで終わる」崩し方に意外性があって、かえって目を引く技だと思うんですよね。
自分で跳んでみても、途中で片手だけずらして足の下に入れるのが、収まりの悪いような、決まればすっきりするような、不思議な感覚があります。
自分の感覚だと、S・O・トードやS・O・クルーガーではダメなんですよ。オープンからトードに入れる動きの大きさ、クルーガーの開きぐあい、どちらも「ちょっと崩す」という感覚とは離れていて、S・C・トードの微妙さにはかないません。
なわとびで「対称」な技って少なそうです。
上で書いたように交差は完全な対称ではないので、なんらかの交差が含まれる技はすべて除外されます。サイドスイングすらはずれますね。
残るのは、普通の前とびや後ろとび(O:オープン)か、カブースオープンくらいでしょうか。あとはウェブスキッパーとか、オープンからの両手リリースとか……。なんにしても、多回旋か回旋方向くらいでしかバリエーションは作れそうもありません。
なわとびで対称のような完全性を求めるとしたら、たとえばフリーの中で左右のサイドスイング数が同じとか、実はすべての技を鏡合わせになるように跳んでいた(重複がすごそうですが)とか考えられますね。
ただ、一番は「よくある技」じゃないかと思います。
イメージを伝えづらいんですが、対称の完璧さと、よくある技の定番ぶりに、同じ安心感があるというのか……。
文字通り対称な技はそこまで多くなくても、定番な技は定番なだけあってきれいに跳ばれることが多いので、整った感じがします。その整い方が似ているということです。
上の引用の話が、なわとびにも当てはまるとすれば、たとえば日本選手のフリースタイルは、定番からすこしだけ崩して「より完璧な美を構成する」ものが多いことになります。これもわかりづらいので、もうすこし書きますね。
単縄を始めたころに、そんな感じのことを読んだ(聞いた?)気がします。
他の国は、演出全開、難度連発、技術抜群、などなど、ある方向に針が大きく振られている印象が強い、と。一方、日本は定番の技を跳びつつ、ところどころで予想外の展開を見せて歓声を受けている――。
記憶違いかもしれませんし、今はまた別の評価をされているのかもしれません。
「ちょっと崩す」からにはどこかにねらいがあって、きまれば、きれいな演技になるでしょうね。
本のカバーのイメージを借りながらの1枚。
見せたいものは何か。何を見せるか……。