■ そういう生き方しかできない。それでも。
今回は「マイノリティのこと」。
今年も、プリキュア最終回に合わせた話で。
『デリシャスパーティ♡プリキュア』(・はハートマーク)、初めて1年続けて見ました。「ごはんは笑顔」がキーワード。ほんわかと明るい雰囲気でしたが、実は、マイノリティやコンプレックスのような、「小さき者」の苦しみに迫っていた話だったとも思います。
なわとびと「むすび」つけながら語ります。2回に分けたほうがいい内容ですが、まとめて書きます。よろしければお付き合いください。
「そういう生き方しかできなかったからさ」
第28話、敵のナルシストルーのせりふから。この一言に、この物語で苦しんでいた人たちの本音が詰まっているような気がしました。
策が尽きて捕まってなお、言葉でまわりを傷つけようとした彼が、「どうして」と問われてゆがんだ笑顔で答えた言葉。食事を受けつけない・楽しめないという、この物語で一番輪の外にいたかもしれない彼が、料理をあきらめから憎しみの対象に置きかえたのは、いつだったのか。彼の口ぶりからは、別の「生き方」への羨望もあったように思えます。でも、そういう道は選べなかった。
形は違えど、マイノリティって、そういう存在だと思います。人と合わせることはできても、本質・特性はなかなか変えられない。
マイナーと言えば、大人のスポーツとしてのなわとびですが、僕にとっては、向きあいかたのほうが明らかにマイノリティです。人目があっても公園で毎週跳ぶ、その姿。
この話でも、あえてマイノリティな部分を意識した内容にしました。人とのつながりは深くありません。よく続けていられるねと言われたこともあります。楽しい。でも浮いてる。人がマイノリティのレッテルを貼るだけの条件は、まばらにそろっているでしょう。
「エキセントリック……。えっと……、変、ってこと?」
第36話、プリキュアの1人・らんちゃんの言葉。あこがれの人に、上目づかいで不安そうに問いかけたシーンから。
この子は、「はにゃー!」が口ぐせの、コミカルな、でも食べ物への情熱は人一倍な子。食リポが大好きで、いつも多彩なイメージでお料理を語っていました。でも、かつて同級生にそんな姿を「変」と言われ、傷ついたことがあります。
あこがれのグルメインフルエンサーに会えた話で上の言葉が出たとき、胸が苦しくなりました。仲間と笑顔を重ねてきても、らんちゃんの中では「変」と言われたことがずっとトゲになって残っていたんだ、と。底抜けに明るいこの子が、一瞬で真顔になって、消え入りそうな声になる。マイノリティかもしれないことを、自覚させられる。
怖くても確かめようとする姿が胸につまりました。僕も、似た部分をなわとびに感じながら続けてきました。でも、ブログならともかく、自分の口から「変だと思いますか?」なんて聞けたことがない。
もちろん、らんちゃんには背中を押してもらえる言葉が返ってました。「そういう生き方しかできなかった」子が、その生き方に向きあって、認めてもらえた。その一瞬の勇気が心に残ったのは、間違いなく自分にも重なるものがあったからです。
そして主人公、ゆいちゃん。
おばあちゃんの言葉を継いで、いろんな人に伝えてきた、素直な女の子。敵であっても話がしたい、伝えたいと向きあった彼女は、最後の戦いを前に初めて心を折られます。届かない言葉。傷つけられた仲間。強大な力を手にした敵の親玉は、実はひどくせまいきっかけで、道を踏み違えた存在です。
でも、だからこそ、今出てきた脅威なのだと思います。
ネットで、視野のせまい言葉や行為が目につきやすい今、ときに取り返しのつかない所業がニュースにもなって、ちょっと考えてみても、どうしたら防げるのかと煩悶(はんもん)したくなることもあります。誰かから何かを奪う行為にまで及んでしまえば、その人はもう、世の中から道を踏みはずしたマイノリティでしょう。
救いきれない光景。今回のボスには、そんな「現実感」がにじんで見えました。天真爛漫なゆいちゃんが、現実を映したようなボスのゆがんだ心に打ちのめされる姿は、天使が石を投げつけられているような苦しさすら感じました。
このシリーズ、珍しく男の子ヒーローも最初から姿があって話題でした。でも、いっしょに大活躍!というより、自分の身の置きかたに悩みつづける子でした。プリキュアという女の子ヒーローの中で、男の子はどんな形で人を救えるのか。そんな投げかけでもあったように思います。
彼も含めて、自分という檻(おり)にうずくまったとき、敵も、味方も、周囲とは隔絶されたマイノリティだった気がします。そんな姿を見るたび、大人が、ひとりで、なわとびを続けるときに自信が揺らぐ気持ちと重なることがありました。
「誰かにとっての幸せは、誰かにとっての不幸せだ」
そこまで言いきる敵。自分のせいでみんなを苦しめたと、ゆいちゃんが噴水の前で立ちつくすシーンは、予告編ではちょうど、オープニングでプリキュアが降り立つシーンのBGMで、ヒーローがヒーローでいられなくなったようにも見えました。先を知っている今でも、涙がにじむ場面です。
そんな、小さな檻に閉じこめられた人たちの気持ちを背負ったようなゆいちゃんに、もう一度立ちあがる言葉をくれたのは、ヒーローになりきれなかった男の子。最後の笑顔も、彼でした。
誰かの笑顔を思う気持ちや、分けあう心。そこからお互いに生まれる感謝の気持ち。これは、自分の時間をその人のために使う=分けあうだけでも、生まれるものだと思います。
僕はなわとびがへたです。10年近くやってそんなにうまくなってない。それでも、万全の自信はなくても、伝えられるもの、届けられるものはあるんじゃないか。感想をなわとびに結びつけたとき、自然と ―― いや、そうありたいと思う気持ちが、浮かんできました。
最後に続けさせてください。
認められるマイノリティ。こういう言いかたが失礼だったらすみません。ローズマリーことマリちゃんのことです。プリキュアたちのサポート役としてずっとそばにいてくれたクックファイター。彼は、お化粧の大好きな、いわゆる「おネエ」キャラです。
プリキュアは「女の子だって暴れたい」で始まったこともあってか、社会性にも気をつかいながら作られてきたと聞きます。マリちゃんもジェンダーフリーな人。そんなキャラクターが、作中でその特性を何か言われることもあるのかな …… と最初は思っていました。
でも、そんなことはなかった。初顔合わせの人でもみんな、当たり前のようにふれあってました。大人として、頼もしさもあり、コミカルな役どころもあり、何より、心が美しい人。どんなときも人を支える側にいる。ほとんど準主役で活躍して、欠かせなさならだれより大きい。最終回で、プリキュアという「ヒーローのつらさ」に寄り添う言葉を選んだ姿は本当に美しかった。今作で一番好きなキャラでした。
メタ的に言えば、最初から「認められた存在」です。まるで、テーマの食事を好きになれなかったナルシストルーの対極。――あのとき、ナルシストルーを取り押さえ、なぜ人を傷つけるのかと問いただしたのは、マリちゃんでした。
最終決戦で、いろんな人たちが総登場する中、ナルシストルーもその力ですこしだけ手を貸すことになります。そのとき、マリちゃんが「あんた、いいとこあるじゃない!」とうれしそうに声をあげたとき、認められなかった者の手を、認められた者がたしかにつかんで受けいれたような、1つの円環がきれいにつながるイメージが浮かびました。
「そういう生き方しかできなかった」というナルシストルーの言葉は誰にでも当てはまるし、こだわりの強い言葉や動きに自分を支配される人はいくらでもいます。僕もそうですし、なわとびでも、向きあいかたや体の動きが変わらないことが多い。子どもが、跳ぶのも回すのもままならずにうつむく姿も何度となく見ました。
変われないかもしれません。それでも、ブログに書いてみることで、気にしていた思いや、こだわりにとらわれていた動きが、違う形に見えたこともあります。小さな檻にとらわれた姿を、置き去りにすることなく、何か言葉をかけていけたら。
「大丈夫。誰かのためにがんばる心は、いつだって無敵よ。ね?」
ゆいちゃんが力を失ったとき、救うように肩を抱きあったプリキュアたちに、マリちゃんが後押ししてくれたこの言葉に、「ありがとう」って伝えたいです。僕も、誰かに届く言葉やなわとびを、続けていきたいと思います。
3本の縄を使って跳ぶのをトライアングルと言います。キュアプレシャスのトレードマーク、そして、おむすびのイメージとしても、今回はこれで描きたいと思ってました。エナジー妖精は、せっかく変身できるようになったので、こちらの姿で……。
タイトルの「パーティ」って、テーマからするとお料理を囲む会のイメージです。でも、はぐれそうになってもその手をつかんであげるよ、という、「仲間」へのメッセージでもあったのかなと思います。
1年間、素敵なお話でした。ごちそうさまでした!