とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

631 油断と緩慢

今回は「回しかたのこと」。

どうして引っかかるのか?

この単純な疑問に、「回しきれていないからだ」と気づくことが増えました。

たとえばこの前の記憶。COO([交差 → 開く → 開く]の3重あやとび)が最後のOで引っかかりました。当たったのは足首あたり。縄の位置が高かったから …… と思いがちです。僕の場合、縄が右にそれたとか、手を引きすぎたとか、他にも可能性はあります。

でも、手もとの感覚は違いました。引っかかったら動きを止めて確認するクセがついているのですが、ひじから先が固まっているのがわかりました。3重あやを回しているうちに、手の動きが止まりつつあったのです。


最近は、ここがわかるようになってきました。

手が止まれば縄の動きが変わります。上のCOOの例で言えば、[交差 → 開く → ]までは円状に回っていたはずの縄が、手が止まって下まで回りきらなくなった。だから、足の下より高い場所で当たってミスるのです。ついでに考えられるのは、わりと早めに手を止めてしまったから足首まで縄が高くなったんじゃないか、とも……。

そこで疑問は次のステップに移ります。

回しきれない = 手を止めてしまうのはなぜか?

手を動かしきれないだけ ―― 身体的(フィジカル)に考えればこうでしょう。でも、もうちょっと精神的(メンタル)なところに左右されていると思うのです。


それがタイトルの油断。

これくらいでいけるかな、という力の抜きかげんが、回りきらない縄につながっています。実力の見積もりが甘いわけです。だいたいこういうとき、余裕のある回しかたを当てこんでいることが多い。その力かげんでまわしきれればいいのですが、そうはいかないから引っかかるのです。

ただ、崩れても理想があるのは大切です。ダメならそこを目標にして、まずは跳びきれるところまで力を入れて修正すればいい。余力を残していたはずなんですから。余裕を求めるのは、改めてそこからでいいのです。

ここまでは技の短い瞬間を切り取った話でした。手が止まりがちになるのは、短い瞬間だけでなく、長い時間の中でも起こります。


それがタイトルの緩慢(かんまん)。

曲に合わせた演技・練習とか、同じ技やルーティンを何度も繰り返しているときとか、疲れがたまってくれば、手を動かしづらくなります。するとやっぱり、縄を回しきれなくなって引っかかる。これはわかりやすいですね。

ここにも、ラクになりたくて思わず力を抜いてしまう油断があるのですが、長時間跳ぶときは、意外と油断はないとも思うのです。

なぜかというと、もはやベストじゃない(=引っかかりやすい)のがわかっていて、かえって気をつけようとするから。足を曲げぎみにして、なんとか縄を通そうとする動きなどがそうでしょう。ムリしているし、緩慢な動きに見えますが、冷静に自分の状態を評価できているとも言えるのです。


こういう2つ並べて比べる話は、だいたい、いいとこ取りができます。

動きが緩慢なときの注意力があれば、「これ以上回さなくてもいいかな」という油断もなくなりますし、油断したときの反省があれば「これくらいでも回せる」という確信をこめた緩慢さを生みだせる。そうしたヒントが、技の短い瞬間や、長い時間の技にピンポイントで刺されば上出来でしょう。

なわとびじゃなくても、通じる話だと思います。